研修医の部屋 RESIDENT ROOM
JMATに参加して
平成23年4月23日から4月26日にかけての4日間、地域医療研修として波江野善昭先生をはじめとした日本医師会災害医療チーム(JMAT)の一員として宮城県南三陸町の歌津中学校での医療支援に参加しました。私が今回、JMATに参加することとなった経緯は、近畿大学医学部奈良病院の臨床研修プログラムの中で、4月から地域医療研修を受けることになっていた『はえの医院』がJMATに参加するからでした。波江野先生から「今後の医師としての人生に必ずプラスになるから」と薦めていただき、また、近畿大学医学部奈良病院、奈良県医師会のご厚意もあり、今回の貴重な経験をつませていただくこととなりました。
4月23日空路にて伊丹空港から岩手県花巻空港に移動し、近所のホームセンターで、現地で使用する水、灯油を購入し、奈良県医師会の車にて宮城県歌津中学校に向かいました。花巻空港周辺ではホームセンターの棚に不足なく商品がいきわたり、雑誌も遅れなく発売されていましたが、東北自動車道を南下し、宮城県にはいると路肩のひび割れた道路や、閉店しているコンビニや告別式の案内が目立ち、今回の震災の中心地にむかっていることを実感しました。途中の山道は倒壊した建物や倒木もなく震災の被害をあまり感じさせませんでしたが、山道を降り谷間にでてくると、一面の瓦礫、流されてきた車や船が眼前に現れました。薄暗い雨の中、どこをみまわしても、まともな建物が存在せず、破壊されつくした町の風景はある種映画のようで、とても現実の光景とは思えないほどでした。山での町並みと低地での町並みの違いから、今回の震災で最も猛威をふるったのが津波であることを実感しました。現地は道路の上だけは瓦礫が片付けられていましたが、電灯はなく片側しか通れない道やアスファルトのはがれている道もあり、夜間の移動は困難であると感じました。
現地での私たちの持ち場は歌津中学校保健室の仮設診療所でした。到着後は前任の医師より引継ぎをし、山梨大学医学部から派遣されていた医師1名と看護師2名のチームとともに診療をおこないました。中学校の体育館には手が空いたときに往診にむかいましたが、体育館の環境は寒く乾燥しており、床も固く、プライバシーもない状態でした。また、電気は回復していたものの、上下水道は止まっており、トイレや手洗いなどの生活用水に不自由していました。こういった事情もあり、診療所をおとずれる患者には腰痛・膝痛を訴え、関節注射を希望される方が目立ちました。ほとんどの患者は中学校の体育館に避難している方でしたが、近隣の住民も少なからず訪れ、移動手段の限られている被災地において多くの人々が仮設診療所を頼りにしていると感じました。ほとんどの患者は夜明けから21時の消灯時間までの間に訪れ、4日間で消灯時間以降に訪れた患者は家で転倒し、頭を打った子供だけでした。17時から消灯時間の間に訪れる患者も夜間に来ることをとても気にされており、慎み深い東北人の気質を感じました。
南三陸町の医療支援の中心はベイサイドアリーナでした。不足した薬剤や道具の補充に何度か訪れましたが、歌津中学校以上に多くの被災者が起居していました。大規模な避難所であるため、炊き出しや衣料品、日用品は豊富にありましたが、埃っぽい廊下にダンボールで壁を作って生活していて、トイレもビニール天幕で覆っただけのものであり、衛生面は非常に不安でした。
現地では近畿大学のOBで、南三陸町で開業されていた鎌田先生と知り合う機会も得ました。先生は自身も被災され診療所を失いながらも、倒壊を免れた接骨院を借り、診療を続けられていました。先生との会話の中で印象に残ったのは、5月中旬迄に全ての医療チームが撤退することに対して「今の南三陸町はよちよち歩きを始めたばかりだから、出来るなら入院可能な施設が出来るまで、最悪でも夜間に当直医がいる状態になるまで、息の長い支援をしてもらえたら助かる」とおっしゃっていたことでした。5月13日に奈良県医師会チームを含む全国からの約40にのぼる医療チームは撤退しますが、それ以降の休日夜間の救急診療体制が現時点においても決定しておらず、多くの人々が車を津波で流されたり、公共交通機関を失ったりしたなか、通院手段もはっきり決まっていない状態でした。今後の南三陸町の医療に若干の不安を感じました。
震災から1ヶ月以上経過していたこともあり、診療所には急性期疾患というよりも慢性疾患の患者が1日30人から40人訪れました。診療所での診察は主に波江野先生と山梨大学の医師が行い、私自身は両先生が不在時には診察・処方もしておりましたが、基本的には診察を待っている患者に問診をしたり、先生方が交付された処方箋をもとに調剤をしたりしていました。普段、研修を受けている大学病院では気軽に採血、画像検査をオーダーしていたこともあり、聴取した問診内容と自身の目、耳、手で手に入れた情報のみで自信を持って診断し処方を行うことを難しく感じました。気軽に検査をオーダーすることにより、自身の身体診察の能力の研鑽を怠っていたこと自覚し、いかに普段、過剰な検査をしているかを感じました。
避難所の方々で夜間に診療所を訪れることを遠慮して我慢してしまい、我慢しきれなくなってきてから申し訳なさそうに来られるという方が何人かいらっしゃいました。そういったこともあり、波江野先生の提案で、避難所の体育館を往診することとなりました。往診した際、多くの方々が喉の痛みや節々の痛みを我慢されていました。そういった方々に受診していただき、後日の往診のとき「楽になった」とおっしゃっていたのを聞くと価値のある往診であったと思います。また、お年寄りの方々は我々に折角、遠いところから来てくれたのだからと、コーヒーや地元の名産の笹蒲鉾などを振舞ってくれました。余裕のある人間が他者を気遣うということは比較的容易ですが、被災者の方々のような自分自身の分も満足に確保できていない方が、他人を気遣うことのできる優しさに感動しました。
今回、南三陸町の悲惨な状況や多くのボランティアや自衛官、警察官の活動をこの目で見て、TVなどで盛んに言われている「未曾有の国難」を肌で感じてきました。私はJMATに医師として参加しましたが、医師として未熟で南三陸町の人々に何か貢献できたかといえば何も出来ませんでした。また、避難所の方々が隣人や遠くからきた私たちにまで気遣う優しさや人間性のすばらしさをみて、自身を振り返ると、恥ずかしい話ですが、医師になってから1年間、戒めていたつもりでも、年配の患者や多くの病院スタッフに「先生」と敬語で話しかけられているうちに驕っていた部分があったと感じました。今回感じた無力感と反省を糧に医師として人間としてもっと成長しなければならないと強く実感しました。
最後になりますが、今回、私がJMATに参加できるよう勧めてくださり、様々な手続きをしてくださった波江野先生、現地で私自身の至らないところをフォローしてくださった『はえの医院』のスタッフの方々、他院の研修医であるにもかかわらず指導してくださった山梨大学のチームの方々、私がJMATに参加することを了承してくださった近畿大学医学部奈良病院と奈良県医師会に感謝いたします。そして、南三陸町はじめ東日本大震災の被災地の一刻も早い復興を心よりお祈りするとともに、今後も奈良県の医療に貢献する研鑽を積んで行きたいと考えております。